「王子さん、荷物は?」 「まとめてあるけど?」 「じゃ、行きましょう大手町に」 まだ走り終えたばかりだというのに、走は休む様子もなく走り出した。周囲は新記録に次ぐ新記録に熱を帯びているのに、そんなことは気にするふうもなく、まっすぐに向かった。あの人のところに。 ハイジさん、見惚れてしまって、気付いてないんですか。彼もあなたを求めている。 走の全力疾走に引っ張られながら、王子の脳裏には先日のできごとが浮かんだ。 暗闇の中に、ぼんやりとした明かりが見える。いや、もしかすると暗闇ではないかも知れない。表面に触れる空気の流れもつかめそうなほど、熱く鋭く緊張した皮膚。その敏感さに反して、朦朧とする意識。 「気分はどうだ」 いとしい落ち着いた声が、僕を慰めるように僕の耳に届く。僕は声に反応して、重い瞼を開けた。目を開けたことで、先ほど見ていたものが暗闇でも明かりでもなく、自分の瞼の裏であったことに気が付く。瞼の裏を流れている血液が、ちらちらと明かりに見えたのだ。 「ハイジさん……」 「ん?」  「大丈夫です」そう答えようとしたのに、思わず名前を呼んでしまった。僕はどこまでこの人を求めているのだろうか。  ハイジさんは僕の頬にそっと手をやり、汗で顔にまとわりついた髪の毛を、耳の後ろへ追いやった。しなやかに伸びる指。その先端で光を反射する、きれいに切りそろえられた爪。耳から頬、唇へと、汗が伝うような不確かさでなぞりながら、ハイジさんは僕を見つめていた。  僕はハイジさんの動作ひとつひとつに脳髄を溶かされながら、声も出せずにいた。僕が黙ったままでいると、ハイジさんは唇に爪を立て言った。 「もう一度しようか」  僕の胸が高鳴る。大した強さではないのに、吸われたり噛まれたりした唇は爪の圧にヒリヒリとした。  僕の返事を待たずに、ハイジさんは僕の手首にかかった縄をほどきはじめた。切なくて、はやく返事をしなきゃと焦った。 「したいです」 振り絞った声はかすれていて、どうしようもない恥ずかしさを感じた。言いたいけれど言えない。言いたくないけれど言いたい。聞かれたくないけれど聴いて欲しい。僕の望み。 僕の声が聞こえなかったのか、縄をほどき終えたハイジさんは、僕の体を抱えるようにした。 「つかまって」 僕の腕を自分の首に回しながら、軽々と僕を持ち上げる。僕だって仮にも男なのに。いくら漫画が趣味のインドアでも、共に駅伝を目指してからは鍛えているのに。 ちょっとしたショック覚えながら、細身に見えてがっちりとしたハイジさんの肉体を感じていた。さっきのプレイでは、僕がハイジさんに触れることは許されなかった。だから、つかまっていいと言われたことが嬉しくて、返事が聞こえていなかったという予想を忘れてしまった。 ハイジさんが僕を抱えたままベッドのあるほうへ向かう。このまま終わってしまう…そう思い、慌ててもう一度声を出した。 「あの、」 「ん?」 かなりの至近距離でハイジさんが僕を見やる。顔が近い。確かに、プレイ中も唇を噛まれたりしていたのだから、これよりもっと近づいていたわけだ。でもその時僕は目隠しをされていたので、吐息やにおいを皮膚や鼻で感じるしかなかった。 「したいです」  もう一度、言う。素直にならなければしょうがないと、練習で散々身に染みてきた。  ハイジさんはふっと笑うと、 「聞こえてたよ」 と言った。 「え、でも」 僕が話しかけたところで、ハイジさんはベッドに僕を放り投げた。バネの強いマットの上で、勢いのあった僕は二度バウンドする。ハイジさんはすかさず僕にまたがり、首元を甘噛みしながらみぞおちの辺りを撫でた。 「今日はよく頑張ったと思う。…練習もね。いくら君から仕掛けてきたとは言え、僕の趣味を知っていたわけではないだろう?だとしたら大いに疲れたはずだ」 「わかってました……わかってて、僕はハイジさんとこうなりたかったんだ。だからなんともないです。して欲しいです」  全く経験のないことが連続した。縄での拘束や、痛みと喜びが交錯するスパンキング。もちろん、男性との情事も。これまで同性愛者だったというわけではない。けれども、好きになってしまったハイジさんが男性だったのだ。男性のハイジさんを好きになったのではなく、好きになったハイジさんが男性だったのだ。これはもう自分ではどうしようもないことだった。  ハイジさんは僕を見つめていた。しかし、僕の心の中には、本当に僕を見ているわけではないのだろうな、という哀しさが渦巻いた。走。ハイジさんが見ているのは走。ハイジさんの心を占めている走。 「王子。俺は君の求めていることに応じられないと思う。それでも構わないなら……」  構わない、だからさっきみたいに僕として。そう叫んでしまいたくなった。ハイジさんの言いたいことはわかる。僕には練習のご褒美として、相手にしてくれたことも。 「僕は運動が嫌いだけれど、ハイジさんとなら好きなんだ」  すぐに人の脚に触るあんたに、いちいちイライラして。走をただ見守るような姿に、もどかしさを覚えて。それでも、好きでいることをやめられなかったんだ。  ハイジさんは少しの間目を閉じて、はっきりと僕を見て言った。 「さっきは俺の趣味に合わせてくれたんだ。今度は普通にしよう」 それから僕に優しく口づけし、指先で首や胸の先端、わき腹をくまなく撫でた。強い刺激と痛みに慣れていた肌が、覚醒したかのようにその感覚を取り込もうとする。微塵も、ハイジさんがしてくれることを、逃したくない。 ハイジさんの指と僕の皮膚の間に絹地でも敷かれているのかと思うような、そんな触れ方で、ハイジさんは僕の上半身を愛撫した。さっきは視界を塞がれてからわからなかったハイジさんの動きが、僕の心臓をよりはやくさせた。向こう側に見えるハイジさんの下半身は、柔らかな筋肉に包まれて丈夫で、官能的だった。 ハイジさんは僕の股関節や臀部に指先を移し、執拗にそこを撫でた。 「はじまりよりもだいぶ、よくなったよなー」 ハイジさんは箱根に向けた脚の完成具合を探るように、太もも、膝、脛、ふくらはぎ、足首……いたるところを、リンパ液が流れるような速度でなぞっていく。僕の耳には、自分の血流の音が、砂浜に打ちあがる海水のような音で聞こえてきていた。 まだ直接的なものを触られたわけではないのに、絶頂に達してしまいそうだった。 「ハイジさん」 「ん?」 僕は先ほどのプレイでは叶わなかったことを頼もうとする。 「僕も、ハイジさんのこと、触っていいですか」  目隠しをされ拘束されたプレイでは、僕からハイジさんに触れることはなく、なすがままになっていた。その時は暗黙に、触れてはいけないとわかっていた。しかし、僕の中には好きな人に触りたいという欲望があり、今ならそれが叶うかも知れないと思ったのだ。  ハイジさんは少年のように笑って、「そんなことか」とつぶやくように言った。 「ほら」 ハイジさんはすばやく僕の顔面にまたがり、いきり立った一物を口に押し当てた。僕はとっさにそれを咥えてしまい、喉の奥へ一気に押し込まれたそれを、反射的に吐き出しそうになった。 「いっ」  ハイジさんは少し腰を引いて、僕の頭に手を置き注意する。 「歯は当てるな。それだけ気をつけてくれればいい」  口いっぱいにハイジさんを頬張った僕に返事ができるわけもなく、僕はただハイジさんの命じたことに従うことにした。僕が歯を当てないようにしているとわかると、ハイジさんは僕の両耳を塞いで腰を動かしはじめた。  僕の口の中をハイジさんが掻きまぜている。唾液や、突かれて喉の閉まる音が、塞がれた耳によく響いた。なんて気持ちいいんだ……指先の愛撫とは違った恍惚感を得る。  どれぐらいだろうか、そうした後で、ハイジさんは「いいか」と訊いた。僕が断るわけもなく、ハイジさんは僕の口から自分を抜いて、再び顔が向き合う位置にきた。そして視界からすっと消えると、 「さっきしたから大丈夫だと思うけど」 と言い、僕の穴を舐めた。ハイジさんが行うこと全てに、僕の体は達してしまいそうになる。声を押し殺して我慢していると、ハイジさんは僕の脚をひるがえし、僕に硬くなったそれをあてがった。 「今度は痛かったら言っていいから」  そう言いながら、じらすようなスピードで僕の中へ入ってきた。 「あっ」 我慢していた声が漏れてしまう。 「いいよ、声出して」 ハイジさんは呼吸を乱さずに一定のリズムで僕の中を出入りした。その都度、よさを感じる場所をハイジさんが通過していき、何度も繰り返される快感に僕はおかしくなってしまいそうだった。 「ハイジさん、ハイジさん、好きです。好きです」  ハイジさんは時々優しくキスをして、その時も動きを止めなかった。揺れるハイジさんが僕の表情をうかがっている。僕はハイジさんの手の中にいる。 自分が女の子のようなポーズでハイジさんを受け入れていることも、羞恥心をくすぐった。さっきのプレイとは違う、まるで愛されているような錯覚。 僕は達してしまいそうな波を繰り返しながら、それは階段を上がっているような感覚で大きくなり、次第にいってしまいたいと思うようになった。 「ハイジさん」 「ん?」 「いき……たい…」 「もういいの?」 ハイジさんの言葉に、終わってしまうことが惜しくなった。そうだ、これが終われば、もうきっと二度とない。 ふとハイジさんが僕を見てくれたら、なんて願いが湧き出てしまって、思わず涙がこぼれた。 「大丈夫か?」  ハイジさんは少し動きを緩やかにし、僕の頭を撫でた。 「だ…大丈夫、大丈夫です。続けてください」 僕はしゃっくりをしたような反応をわずかにしてから、自分からも腰を動かしはじめた。とはいっても、経験がないのでうまくはいかないのだけど。 「王子がいけるなら、俺もいくよ」  僕が必死そうにしていたせいか、ハイジさんはそう言った。 「いきたいです」 「よし」  ハイジさんは動きを速めて、ラストスパートを振り絞って走るような呼吸をした。僕はますます快感にとらわれて、体がハイジさんを感じる喜びに浸った。 「いく」 悦楽の中で溢れるように僕から出た声に、ハイジさんは合わせてくれた。  窓からは光が差していた。 「朝になっちゃいましたね」  僕とハイジさんは互いに着替えながら、朝日に照らされていた。アオタケの古びた窓ガラス越しに差し込む光は、屈折なく届いている。炊事だけでなく、家事全般、ハイジさんが担って細かく気付いてくれているからだ。  臀部から太ももにかけての場所を、すーとハイジさんの指が触れるのを感じ、振り向いた。ハイジさんはプレイ中についた僕の傷を撫でていた。 「つきあわせてすまなかった」  ハイジさんの謝罪は心からのもので、それが僕を傷つけた。だが、僕はこれ以上ハイジさんを困らせたくない。そもそも事の発端は僕にあるし、僕が望んだことだ。  僕は傷ついたことを隠しながら、わざとおどけるように言った。 「そんな言葉を聞きたいんじゃないよ」  ハイジさんは僕の言葉に何か返そうとしたが、すんでのところで飲み込んでくれたようだ。僕が聞きたい言葉はハイジさんから出ないということは、よく知っている。そう理解したうえでの台詞だと汲んでくれたようだった。 「箱根で、頂点を取ろう」  話題を転換するかのように、ハイジさんは明るく発した。 「王子、今日まで無理につきあわせてすまなかった」 いよいよスタートというときに、この人は何を言い出すんだろうか。先日の言葉と同じなのは、意図してなのか、そうでないのか。 だから僕も余裕の笑顔を見せて、応えてやった。 「ハイジさん。僕はそんな言葉を聞きたいんじゃないよ」  例えハイジさんが同じ台詞であることに気付かずに言っていたとしても、気付いてくれるように。わざとらしく、大袈裟なくらいに。  そして、今だからこそ言えることも言おうとした。きっと、僕がハイジさんにできるのはこれだけだ。 「鶴見で待ってて」 スタートを切ってからは、後ろを振り返る余裕なんてなかった。  明日、ハイジさんが走のことだけを見つめようとも。これから先もそうだろうとも。  今日、今このとき、ハイジさんのため、アオタケのみんなのため、そして僕のために全力で走るから。だから、僕を見ていて。  10人の思いがのった襷を身に、力の限りを出し切ることを決めた。