にじむ 自分の衝動性に半ば呆れながら、ヒトミは窓の外を眺めていた。 電車はさきほどまでのヒトミが望んでいた、海辺の町に向かって進んでいる。 身を任せて乗っていればそこに着くことができる、という事実に気付いた途端、海辺の町がなんとも魅力のないものになってしまった。 かといって、会社に午後休を出してまで飛び乗った電車からは降りるに降りられず、ただただ過ぎていく景色を流し見ていた。 電車内の冷房は最大限と言えるであろう機能をしていて、汗ではりついていたYシャツが体温を徐々に奪っている。 電車が停車するたびに、ドアが開き、湿度を持った重く暑い空気が入り込み、一瞬ヒトミを温めて、またドアが閉じて、発車する。 いつもならばうだるような暑さに見ることも嫌な外に、体温の低下のせいか出てしまいたい気分になっていた。 ―これからどうしようか。 そう思いはするが、どうするかの提案は浮かばなかった。 また、小さな駅で電車が停車し、ドアが開く。 そこにふーっと、人ではない乗客が入ってきた。 大きさと動きから推測するに、たぶん虫であろうと想像した。 ヒトミは視力の弱い目を細め、それが一体なんなのか暴こうとしていた。 じっと、動き出す車内で、床で止まっているそれに目を凝らす。 「とんぼだ」 透明な羽で光を七色に反射させながら、揺れ動く電車の床に静止している。 まさか死んでいるのではなかろうかと恐れながら、とんぼに近づいて様子を確認しようとした。 ―とんぼって、こんな暑い時期にいるんだっけ。秋じゃないっけ。 もしかすると季節を間違えて生まれてきてしまって、涼しさを求めて人間の場所にやってきたのかも知れない。 そう思うと、自分の境遇や心境にそのとんぼの出生が重なって、自分自身にも理解しがたい仲間意識が芽生えた。 とんぼは、ヒトミが手を伸ばせば触れる距離に来ても、びくともしなかった。 ―間違えて生まれてきて、適応できる場所を探して、ここだと思ったらそこで死か。 自分がどうして、ただの一匹の迷いとんぼにここまで考えているのかわからなかったが、次の駅へ停車するアナウンスが流れた時、ヒトミはとんぼの羽をつまんでとんぼを持ち上げ、開くドアの前に立った。 その車両の乗客は、ヒトミ一人であった。 だからこんな行動を取れているのだろう。 ドアが開き、むっとした空気が流れてくると同時に、ヒトミは車外へ出た。 この駅は急行の通過待ちのため、少々停車するのだ。 つまんだとんぼをそっとベンチの上に置き、軽く駆けて車内に戻った。 ベンチの上にのせたとんぼは、やはり動く様子がない。 しばらくして轟音を立てながら急行が通過し、その勢いでヒトミの乗った電車が揺れ、車掌が発車のアナウンスをした。 ヒトミはその間もベンチにのせたとんぼを見ていた。 よく見えはしないけれども、動けばわかる。 つまりなんの変化も感じないということは、とんぼは動いていない。 死んだんだ。 電車がゆっくり動き始め、とんぼの観察のためもたれていた窓から離れようとした時、ベンチの上からきらめきが上るのが目に入った。 ―あ。 「生きてる」 「そう、そうだよ、生きてるんだ」 目の前の少年は手を広げて、夕焼けを浴びるようにした。 ヒトミは、一瞬、これまでの出来事がなんだったのかわからなくなり、考えようとした。 しかし左右いっぱいに広げられた少年の腕と、そこに満遍なくあたる夕日が美しくて、考えようとしたことなどどうでもよいことだと思い直した。 ヒトミは息を呑んだ。 夕焼けは少年に吸い込まれるようにあっという間に闇になり、空には星が浮かんだ。 再生されていた夏の日の暑さが長すぎたのか、少年の光景に見惚れすぎたのか、夜の訪れは瞬く間のものだった。 「君は、君は、あの時の・・・」 やっとの思いでヒトミから出た声は正しく文にはならず、途切れて行く先を見失ったようになる。 息を吸ってばかりいるような気がした、と同時に少年の吐息さえ聞こえてきそうだった。 言葉が続かないヒトミに少年は大きく笑みを浮かべ、「そうだよ」と言った。 まだ何ヶ月も経っていないあの時から、今の行動と心情までの繋がりが、一時失われた。 どうしてだか、もう死のうと思っていたのだ。(本当は死にたくなった理由を知っている。) 最後となる日に、私に親切を与えてくれた少年と遊び、そしてこのまま消えてなくなろうと思っていた。 我ながら衝動的な考えだと感じる。(本当は死にたくなった理由を知っている。) 心のどこかに蓄積されてきたものの結果なのだ、とヒトミは心の中で独り言を繰り返しながら、目の前に居る少年を見つめた。 思えばあの時だって、死んだって構わなかった。 「どうだろう。僕がもう一度、生きる希望をみせてあげるね」 少年の瞳は月に照らされた湖面のように、つややかに光を反射させていた。 ヒトミには少年の言う意味がわからなかったが、そもそもこの少年が何者なのかも、今となってはわからないことだった。 少年は自分の体を抱きしめるように腕を回し、力を溜め込むようにすると、腕を一気に開いて解き放たれたようにした。 闇夜に現れた光と色。 それは光の凄まじさで辺りが白く見えなくなるほどだった。 ヒトミはあまりの眩しさに目を細めながらも、見逃してはならないことを悟って、必死にその光景を脳に送った。 少年の肉体はそこになく、その代わりに虹色に輝く羽を持った無数のとんぼが、空高くちりじりに飛んでいった。 「ニジム・・・」 とんぼの舞い飛んだ空に向かって、聞いていた少年の名を叫んだつもりだったが、声は叫びにはならず、か弱く暗闇に呑まれた。 とんぼの羽から溢れる光によって、瞬間的に眩くなったヒトミの視界は、その景色が嘘だったかのように黒く塗られた。 指先に、とんぼの羽の感触がよみがえる。 なまなましい、生き物の感触。 体温はないのに、生き物だという感触。 ヒトミの頬に筋が伝い、雲の外れた月に真っ直ぐに照らされるのだった。