風媒街 1 「そう、明日の便に乗るの」  突然過ぎる話にどんな反応をするかと心配していたが、母は穏やかに笑った。そして、頭の中で思い出を回想したのだろう、ぼくの全身を眺めて「大きくなったわねえ」とひとり言のように呟いた。 「寂しくなるわね」  今度は壁にかかった父の写真のほうを向いて、同意を求めるように言った。  あたたかな日差しが窓辺に注いでいる。空気中には生き物たちの息吹が感じられる、春独特のものが漂っている。生まれてから何度目の春だろう。物心ついた時から、いずれはこうなることはわかっていた。“旅立ち”聞こえはいいけれど、待ち遠しいものではなかった。  父はなんというだろうか。ぼくが母を置いて旅立つことを。  春になると、毎年マチからホウシが出る。マチで生まれた男は、それに乗って旅立つ。行き着いた先のマチで暮らすこともあれば、まだマチではない場所に辿り着き新たにマチを作ることもある。と、聞いてはいるけれど、それを体験したことはまだない。明日、ぼくはそのホウシに乗る。  夜、母はぼくに最後の手料理をふるまってくれた。 「今はどうかわからないけれど、小さかった頃からも含めて、一度でも好きだと言ってくれた料理を作ったから。たんと上がんなさい」  おそらく二人では食べきれないであろう品数が、食卓の上に並んでいた。 「ありがとう。……確かに、これ好きだと言ったことがあるね。よく覚えてるね。ありがとう」  思春期は普通にあったと思う。でももう旅立つ年頃なのだ、親に感謝を告げることに恥ずかしさはない。むしろ、もう時間が残されていないのだと思うと、それ以上に伝えたいことはない。  ぼくと母は食卓につき、手を合わせてから食事をはじめた。 「もっと早くに言わなくてごめん」 「え、なんのこと」 「明日の便で旅立つつもりだって、もっと事前に言わなくてごめん」  ぼくは食べながら、旅立ちを突然に言ったことを詫びた。 「そうねえ」  母は手を止めて、ゆっくりと話した。 「確かに、もう少し早く聴けていたらとも思うけれど、準備に親の手は要らないし、あなたが前日に報告すると決めていたのでしょう。それならそれで仕方ない、というか」  考える時の癖で、口元に手を持っていく。そして少ししてから 「それでいいと思うの。だってもうこれからは、親の意見も言葉も届かないところにいくのだから」  と続けた。そして口元にある手に気づき「また食事中なのに行儀の悪いことを」と謝るように言い、食事を再開した。  自分の悪いところを正して子供に見せる、そういう教育の仕方をする母でありたいと、ぼくがわかるようになってから話してくれた母の、正そうと努める姿ももう見納めだ。 「ありがとう」  想像をしても追いつかないことだけれど、母がぼくを苦悩しながら育ててくれたことを知っている。ぼくが生まれてすぐに父が死に、母はどれだけ心細かったことだろう。「男の子しか持てなくて残念ね、再婚を考えたら?」周囲が母にそう勧めていたことも知っている。マチに残れるのは女性だけだから、女の子のいない親は孫という存在が見られない。幼子と生活していくのに、成育するのに、あらゆる面で苦労してきたことを知っている。  感謝の言葉では到底足りないと感じるも、今の自分にはそれ以外になにもできなかった。母の言動ひとつひとつが懐かしさに直結して、しっかり味わっておきたい母の手料理が喉を通らなくなりそうになる。  ぼくが思い巡らせていることに気づいてか、母はにっこりと笑って 「いいから食べなさいな」  と皿におかずを盛った。ぼくはそれに手をつけながら、今のうちに訊いておかなければと思ったことを話すことにした。 「ねえ、ひとついい?」 「なに?」 「父さんは本当に、このマチに来るまでのことを覚えていなかったの?」  ホウシに乗った男性は、辿り着いた先で以前の記憶をなくす。――と言われている。自分や同じホウシに乗ってきた仲間のことについては覚えていても、旅立つ前の生活や家族のことをそっくり忘れてしまうというのだ。 「父さんが私に嘘をついていたわけでなければ、覚えていなかったのだと思う。もちろん、嘘はついていなかったと思うし、他に乗り合わせてきた男性たちもみんな覚えていないと言っていたわ」  何度聞いても不思議な話だと思う。人は自分の過去を忘れてしまったとしても、正気でいられるのだろうか。経験のないぼくには、まだ納得がいかない。そして、本当にそうなのだとすれば、 「ぼくも母さんのことやこのマチでのこと、今大切だと思う記憶もなくしてしまうのかな」  親元を離れるだけではなく、これまでのことが記憶から削がれるという不安。そういう決まりだし、毎年旅立つ人を見てきたから旅立つことについてはあまり何も考えていない。でも、記憶がなくなるというのは、ぼくの何かがすっぽりと抜けてしまうのではないかという恐怖があった。  母は食事を止めて席を立ち、ぼくが座る後ろへやってきた。ぼくの肩に手を乗せると、穏やかに、しかし力強く言った。 「そうだとしても、きっとあなたの中に残っている。私とのこと、このマチでのこと、頭の中からなくなっても、あなたはそれでできているのだから。だって、そうでなければ、私は父さんに愛情と信頼と抱くことはなかったと思うもの。昔のことを忘れていても、それで形成されているその人というのはなくならないものよ」  振り返ると、母は目に涙を溜めていた。 「大丈夫。私はあなたを忘れないし、あなたがこれまでのことをなくすこともないわ」  こぼれそうになった涙を拭ってから、ちょっといたずらっぽく笑った母は、寂しさを隠しながらぼくを見守るいつもの母だった。 「行く先で、いい人と出会えるといいわね」  いい人という言葉がパートナーとなる女性のことだとすぐに気づき、これも言っておかねばならないと意を決した。 「実はさ、連れて行くつもりの人がいるんだ」  母は一瞬目を丸くして、驚いた顔をした。 「そうだったの。これまで一度も、恋人のことなんか話さなかったから……てっきり浮いた話はひとつもなくて、そのまま旅立つのだと思ったわ」  ホウシに乗るのは原則的に男性だけだ。女性はやってくる男性を待ち、そしてそのマチで出会った男性と婚姻して子育てをしていく。しかし、男性が旅立つ以前にパートナーを持っていれば、その女性を連れて行くことができる。そして新しい地で共に生活をしていく。 「相手の親御さんはご存知?」 「今日、話すって言ってた」 「まあ」  母の顔には「騒動にならなければいいけれど」と書いてあった。  マチに残るはずの娘が、男について出て行くと知らされる。しかも前日に。連れて行く側のぼくとしても直前の報告は非常識だと思うし、ぼく自身が相手のご両親に対してすまないと感じるから、事前にあいさつに行きたい、彼女には何度もそう申し出た。しかし彼女は首を縦には振らなかった。付き合ってきてわかったことだけれど、彼女と両親、とくに母親との関係があまりよくないらしい。だから、どうせ旅立つのだから、今の家族とぼくが接触することを避けたいようだった。 「ぼくが旅立ったあと、相手のご両親からなにか言われるかも知れない」  ごめんなさい、そう続けようとしたが、母が遮るように言った。 「仕方ないわねえ、息子の最後の不始末、お母さんが請け負いましょう」  最後の最後まで一人残す母に負担をかけてしまう、そう感じ言葉に詰まっていると 「いいから、食べなさいな。明日、出発前にはそのお嬢さんに会えるでしょう。楽しみね」  気を取り直させるように、再び食事を勧めてきた。もう謝らなくていいから、という母が発するものに気圧されて、謝罪ではなく感謝の言葉に置き換えて言うことにした。 「ありがとう」  ぼくは母に甘えて、好物に手をつける。 2  案の定、憤慨している様子だった。 「どうして?あなたにとっても苦労になるかも知れないのよ」  母はそうすることで私が引き下がると思っているのか、いつものように、たしなめるように言う。憤慨する母の横で、父はただ「お母さんを怒らせて、まいったな。ダメじゃないか」という顔をしている。 「でも、もう決めたことだから」  普段ならそうそうしない口答えをし、それが予想通りに母の導火線に火をつけた。 「なんで?だいたい前日に言うなんておかしいでしょう。おばさんたちにも伝えられないし、そもそも私もみんなも、これからもあなたと暮らしていくつもりだわ。女の子はそうするものだもの。親の手伝いのない場所で子供を育てるなんて無理よ」  ほら、これが本音。私や、私の家族の想定と違うことをするなんて許さない。――母の言葉から読み取れる、母の思考。  苛立つ母に私は返す。 「男の人について行く女の人だっているでしょう」  じりじりと音を立てるように燃える母の導火線が、目に見えるようだ。母が何かを言って、同意や肯定といった以外の言葉を発する私は久しぶりだろう、それについて戸惑っている様子もある。 「よそはよそ、うちはうち」  呆れた素振りで返答してくるが、根底の怒りは隠しきれていない。片方の口角が震えながら上がっている。 「それを言うなら、私は私。残って家族をつくる人、男の人について行く人、いろんな選択があるなら、私だって私の考えで選ぶ」  母の目が見開かれる。父は「これ以上お母さんを怒らせるな」という顔をしている。 「なに屁理屈をこねてるの。いいから、今すぐ相手のところへ行って断りなさい。とにかく今回は残って、もしまた連れて行くなんて男の人が現れたら、事前に話しなさい。それはその時に考えましょう。でも、今回はひとまず相手に行かないと言って」 「言わないし、私はここを出て行く。断るってなに?ついて行くって言ったのは私。相手が誘ってきたわけじゃない」  母の言葉を遮って話し、はっきりと意志を示した。……つもりだ。毅然とした風でやりとりをしているが、母に歯向かうことに心の中の幼い私が怯えている。  母の導火線はますます短くなり、表情が険しくなっていた。父は「まずいから、とりあえず謝りなさい」という顔をしている。 「前日報告なんて、非常識じゃない。あいさつにも来ない男について行くなんて許さないし、突然いなくなるなんてお世話になってきた人にすまないと思わないの」  母は私が折れる言葉を探している。私は私で、話を切り上げられる言葉を探している。 「お母さんだってお父さんと一緒に出てきたんでしょ。なら私が旅立つと決めたこと、自由にさせてよ」 「お母さんはちゃんとしてきたから!」  私が言い終えるが早いかどうかというタイミングに、先ほどよりも一段と大きな声を母が張り上げた。と同時に平手を上げる。父は表情を作るよりも早く母の手を掴み、それに続く行為を止めさせた。 「あんたみたいに、わがままを言ってこうしてるんじゃないわ。いい加減になさい!」  母の額には、左側に青い筋が浮いている。私は母から目を逸らさないように意識し続けた。それは抗う証だった。母に屈せば恐怖はなくなる。けれども、ここで引き下がるわけにはいかない。 「どうだったかなんて覚えてないくせに」  反論のしようがないことを突きつければ、母の怒りは増幅するだろう。もしかしたら、あの手が父の制止を振り払って向かってくるかも知れない。そうわかりながら、言葉を発した。 「なにが……」  母は言葉を詰まらせた。私は母がこのマチに来る前のことをなに一つとして覚えていないのに、なにを持って自分がイイコであったという自信を持っているのか、未だにわからないでいる。  母が腕に力を入れるのが見て取れた。言葉で反論できなくなり、私を叩こうとしている。叩いてコントロールしようと。しかしその手は父に掴まれている。 「離してよ!」  父に訴えながら腕をもがく母を見て、この人には最後までいい感情を持てないまま別れを迎えてしまうのだと、むなしさを感じた。 「離して!言ってわからない子は」 「ヨリコ」  母の言葉を遮って、手をより強くとどめながら、父が母の名前を呼んだ。 「落ち着け」  声を発することが少ない父の呼びかけに、母は少し冷静さを取り戻した様子で手を下ろした。 「お父さんは、お前が決めたことになにも言わない。今回の旅立ちを中断するつもりは全くないということも、わかった。わかったから、部屋に行きなさい」  私に退場を命じたのは、自分が元のマチから連れ出した女性を傷つけずに、娘にも理解を示した体をして、この場を収束させようとする父の手段だった。 「ちょっと」 「いいから部屋に戻りなさい」  母がまだなにかを言おうとしたが、父によってかき消された。 「わかった」  せめて最後は気持ちよく別れたい、そんな淡い思いが心のどこかにあったのだろう。もしくは、母との攻防が済んだことに安堵したのかも知れない。両親に背を向け自室に足を運び出した途端に、私の目からは涙が溢れた。  終わった、もう終わったんだ。ここでの私は、明日死ぬ。母の娘という私はいなくなる。  やっと私は私として生きていけるんだ。 3  春のにおいがする。あの出来事から、春が嫌いになってしまった。  友人たちの孫を見るたびにも襲ってくる感覚だが、やはり春を感じる時のほうが記憶がよみがえり、頭の中であの時のショックが繰り返される。  もうずいぶん時間が経った。春は何度もやってきた。私は一年おきに、マチではお祝い事のように盛り上がる“旅立ち”を横目にして、後悔を続けた。  私の娘たちは、このマチを旅立った。おそらく、正確に言えば、旅立ったのではなく私から逃げていった。 「私は自由になりたい。私として生きていきたい」  私と衝突することなど一度もなかった一番上の娘は、最後の最後にそう言い放った。そして妹たちを従えて、揃って旅立ってしまった。  長女は手のかかる子だった。育児を手伝ってくれた両親も「この子はできが悪い」と口を揃えて言い、将来を心配した。しかし、どんなに面倒をかけられようと私にとっては可愛い娘に変わりなく、なんとか人並みになるよう毎日奮闘した。その結果が、私になんらかの不満を抱き、マチを旅立つというものだった。  非常に稀な「女の子供が全員旅立ってしまう」という事態に友人たちは事情を訊いたが、答えられるわけがない。精一杯に育ててきた娘が、実は私を疎ましく思っていた。――これ以上に恥ずかしく苦しいことがあるのだろうか。あんなに手塩にかけてきたのに、愛情を注いできたのに、残ったものはなにもない。友人たちはかわいい孫を抱いて、二度目の子育てをし、なかにはひ孫を抱く者もいる。  窓枠の形をして部屋に射す光のところへ、うつ伏せに寝そべった。春の気配とともに無気力感が増し、掃除をせずにいるせいか、床には薄く埃がある。  戸の開く音がした。夫が戻ってきたようだ。 「おかえりなさい」  私はそのままの姿勢で姿の見えない夫に話しかけた。 「ああ、ただいま」  夫はなまける私に文句を言うこともなく、食器棚を探っているようだった。喉が渇いているのだろう。妻としてお茶を淹れるべきなのかも知れないが、光に溶けてしまったように体が動かない。 「ねえ」  私はやはりそのままの姿勢で、茶葉を出すために戸棚を触る夫に話しかける。 「なんだ」 「ヨリコたちは元気かしらね」  夫が動きを止めた気配がし、「そうだな」と返事をしながら再びお茶を淹れる作業に戻った音がした。 「孫だってもうずいぶん大きくなってるはずだわ。もしかしたら、孫も旅立ちの時期かも知れない」  友人たちの孫を思い浮かべながら、話しを続けた。 「私、後悔しているの。もっとしっかりしていれば、みんなでしあわせに暮らせたのに」  毎年似たような話を聞かされる夫は、ルーティーンのように相槌を打ちながら今回も話を聞いているようだった。お茶の香りがして、ポットからカップに注ぐ音がし、猫舌の夫がそれを冷ますために息を吹いている。 「あのこたちが失敗していないといいわ、親の手伝いがない子育ては大変だから」  いつもならもっと言いたいことが口に出るのに、今日はどうしてだか疲れている。夫の態度も気になり、娘や旅立ちについての話をすることは中止した。  目を閉じて、日光の暖かさに集中してみる。    今年もマチからホウシが出る。