夏の追憶 『これから意識がなくなるなんて信じられないね。』 「もう少しベッドの下に寝て下さい。」という看護師の指示を聞きながら心の中で唱えていた。 少しだけぼんやりとしている。昨日までの恐怖感に比べて、罪悪感の方が大きくなっていた。 「じゃあね、」 女性の声が何かを言っているけれども、視界が徐々に正常でなくなる。 一センチ四方くらいの緑色の光るものが、視界にぽつぽつと現れる。 四角形は緑色と赤色で、割合としては緑色が多い。 網膜にうまく血液がいかない時に現れる黒い斑点のように、目の前の景色にぼつりぼつりと光がつく。 ふとすると放送休止の音と共に視界が虹色の縞模様になり、一瞬暗転し、幼い頃に大人に怒られながらも近づいて見たブラウン管のテレビ画面のような眩しさと光の三原色の中に居た。 左手には先ほどの緑色の四角形が規則正しくある一点から渦を巻くように増殖し、大きな正方形を形成した。 「あなたが生きてきた意味は全くない。」 男性のような低い声がした。 しかしそれは耳に聞こえるというよりも、脳みそに直接伝えられているような感覚だった。 「今まで見てきたものは全て嘘だ。」 声は続ける。 「これが本来あるべき世界だ。物事の全てを示す。」 それに続いて女性のような甲高い声が同意する。 「そう、だからあなたはこちらに来るべきなの。」 甲高い声は沢山して、ざわざわしている。 また男性の声が続ける。 「これが本当だ。これが本当の世界だ。早くここへ来なさい。」 男性が急かす声と女性がそれに同意する声が騒がしくなる。 左手にある緑色の四角形の塊で形成された正方形は、外側の四角形から徐々に赤色に変化していく。 まれに不規則に内側の一点がぼつりと赤くなり、眩しさが増した。 まるでストロボ撮影をされているように起きる閃光。 胸騒ぎと、不安が続いて、生暖かい赤が私の体から溢れた。 私を急かす声の騒がしさと共に正方形はいずれ全て真っ赤になり、大きなサイレンが鳴り響いていた。 「ー!っあ、あー!いたいいたいいたいー!っあー!」 光と正方形、それから沢山の声はコーヒーにポーションミルクをかき混ぜた時のように歪み、溶けて消えていった。 白い天井がぼんやりと見える。 「いたいいたいいたい!死にたいいたい、殺してー!」 私を急かす声がなくなった替わりに叫び声がする。 可哀想に、誰かを呼んで助けてあげるように言わなければ。 朦朧とする意識の中で、私より先に叫んでいる人をなんとかしてあげて下さいと医師に告げようとする。 腹部に激痛が走る。痛みで体がひきつり、医師に告げたい言葉が声にならない時、叫び声の主が自分であることに気付いた。 誰かが肩を叩いている。 「座薬入れますよ、痛み止めですからね。」 痛い、死にたい、ごめんなさい、痛い、痛い、ごめんなさい。 恐らく自分が発している言葉なのに、考えていることとは別に様々なことがやってくる。 肛門への異物感、腹部を剥がされるような激痛、枯れた金切り声の叫び、それから手足をばたつかせていたのか必死に抑える人の感触。 途中、一度だけ「咽喉が渇いた。」と言った。 井草の匂いがする。 目の前には、会った事のない姉が座っていた。 「あなた、もう面倒みきれないわよ。」 姉の姿が遠ざかる瞬間に、何故か私は姉の母のつもりになっていた。 「いっちゃんごめんね。」 「いっちゃんごめんなさい。」 頭の中での出来事と、現実に発する言葉が重なる。 呼吸が荒いのがわかる。 横向きに寝かせられ、看護師が 「しっかりして。終わったのよ。大丈夫よ、ちゃんと終わったのよ。」 と背中を叩きながら話しているのがわかった。 わかっているけれども、それが一体なんなのかわからなかった。 「過呼吸かしら。」 看護師達がばたばたとしているのを感じた。 汗や涙や涎で顔がじっとりと濡れて、水の中で呼吸ができないような気持ちになる。 腹部には変わらない激痛。 痛いとごめんなさいを大声で繰り返す内に、足元で医師の声がはっきり聞こえた。 「うつ病を持ってるんじゃないかな。」 看護師達が話しかけてくれた言葉はところどころ記憶にないのに、医師の言葉だけが鮮明に残っている。 母が、転がる私のお腹を踏んだ。 「ごめんなさい。」 泣きながら許しを乞う。荒れる呼吸と震える声とは裏腹に、怒りはいつおさまるだろうと冷静に考える。 腕を踏んで、私が体を逃れさせようとするのを固定した。 もう片方の足で顔面と腹部を交互に蹴る。 「痛い、ごめんなさい。痛いです許して。」 私の言葉で母の怒りは増幅してしまい、体が飛ぶ勢いで蹴られた。 背中が壁に打ち付けられて、一瞬呼吸が止まる。 「痛い痛い、ごめんなさい。」 母は転がる私を追いかけて、お腹を踏んだ。 「痛がってるんじゃないわよ。」 これ以上怒りに拍車をかけないように、私はただ謝った。母の表情は恐くて見られない。 「痛くないです。すみません。痛くないです。ごめんなさい。」 それはそれで気に入らなかったらしく、また腹部を蹴る。 反射的に痛い、と言葉が出ては急いで「痛くないですごめんなさい。」と繰り返した。 母は健康スリッパを履いたままそうするので、硬い痛みが続いた。 「痛い、ひ、痛くないです。痛くないです。ごめんなさい。」 腹部の激痛と共に、視界がはっきりする。 恐らくこの画面は私の心電図だ。腕を締め付けられ、血圧が測られているのがわかる。 9・・・6・・・・一桁目は見えないが、ああ相変わらず低い血圧だなと頭の中では考えていた。 「痛い、痛い、痛くないですごめんなさい。」 これは私の声なのか。誰かが背中を擦っている。 「オペは終わっているからベッドで休ませてあげなさい。」 医師の声がする。 「でもこの状態では…。」 「ここは高くて危ないし、落下するかも知れない。それ、台一番下げてるよね?」 「はい。」 「一時的にでもいいから、個室に連れて行ってあげるとか、それは別にお金いただかなくていいから、休ませてあげなさい。」 「そうですね…。」 会話から、私は酷く泣き叫んで暴れているのがわかった。 「危ないです。早く輸血を、」 看護師の声がする。 「お子さんは無事です。お母さんが…。」 何故だかわからないけれども、そこがO病院であると悟った。 「お子さんはこっち、早くお母さんを。」 誰かが指示をする。 顔は見えないが、母が苦しんでいるのが見えた。 すまない気持ちだった、母が私を恨むのも仕方ないと思った。 「ーさん!Mさん!」 はっとすると、私はまだ痛いと痛くないとごめんなさいを繰り返し言っていた。 呼吸が少し落ち着き、腹部はまだ痛いが自分の体ではないようだった。 目の前で苗字を呼ばれているがそれが自分の事だと認識できない。 「誰ですか。あなたはお医者さんですか。」 私は痛いというのをやめて聞いた。 背中を擦る人が「そうです、お医者さんですよ。」と私の耳元で言い、 「こういうときは名前のほうがいいかも。」 と私の目の前の看護師に指示した。 「Hさん、終わりましたよ。」 私はまだ何がどうなっているのかわからない状態だった。 「母は生きてますか。」 私が問いかけると看護師は驚いた顔をして 「うん。生きてるよ。」 と言った。 「すみません、ここはO病院ですか。」 ぼやけた頭で問いかけを続ける。 「えっ。」 「ここはO病院ですか。」 「いいえ、S病院です。S病院ですよ。」 「S…?S…ああ、S病院ですね。手術を受けたのは私ですね。」 やっと頭が目覚めてきて、私は自分が手術を受けた事を思い出した。 「そうですよ。もう終わりましたよ。大丈夫ですよ。」 看護師は優しい口調で言った。 私の呼吸はすっかり落ち着き、苦しさは楽になっていた。 意識が落ちる前に時計の場所を確認していたのでそちらに目をやる。 針は、私が聞いていた終了時刻から一時間進んでいた。 とても長い時間、面倒をかけてしまったらしい。 「お騒がせしてすみません、もう大丈夫です。」 腹部の鈍痛は自分が感じていないような感覚だったし、咽喉がひりひりと痛かった。 押さえつけられていた四肢がじんわりと痛む。 だがそれよりも申し訳なさが先行し、焦った。 やはり麻酔の効きが人より悪いのだろうな、と術中の痛みを思い出しながら考えていた。 「では、お部屋に戻りましょうね。」 看護師は何事もなかったかのように接してくれて、どこまでが現実だったかわからなくなっていた。 移動用のベットに這って移り、身を任せる。 深呼吸をしながら動く天井を眺めた。 どれも夢か…。幻想のようなものかな。思考を廻らせ、何か答えを探す。 その最中、手術室のドアを潜った時に脳にまたあの声が聞こえた。 「こちらが本当の世界だ。早くここへ来なさい。」